東城の由来とまちなみ

東城は、古くは吉備の国の一部であったが、吉備の国が備前、備中、備後と分けられたときから備後の国に
属しています。室町期に、宮氏が五本竹城(後に五品嶽城)を築き、その後本居を西へ約16Km離れた大富
山城(西城町入江)に移したことから、五品嶽城が「東の城」と呼ばれるようになり、東城という地名が使われ
るようになったと言われています。東城のまちなみは、南北に長く、直線の大路と小路によって区画された城
下町の面影を残しています。主に商工業者の住む本町筋を中心にして、西側は家中町(館町)という武家屋敷、
東側は舟運で開けたと思う後町(浜栄町)3本の道路とそれを結ぶ小路からなり、よく整った景観です。また、
数ヶ所は前方が見渡せず、敵の入りにくい桝形の街路が配されています。このような町並みの骨組みは、
関ケ原の合戦後、東城五本竹城の城主となった長尾隼人正一勝(広島藩家老)によって計画的に作られ、
だんだん整えられたといわれています。その後、城は廃城になりましたが、武家の屋敷は残り、商工業は発展
し、舟の往来も盛んになりました。今の浜栄町筋のまち並みが発達し、宿場町としての性格が強くなっていき、
東城は城下町の面影を残した宿場町として栄え、この近辺にはない独自の文化を育んでいきました。現在では
新町筋に「格子窓」「ぶちょう」「板のれん」「小縁」など東城の代表的な町屋の伝統を引き継ぐ商家が並び、
一段と近世らしい景観を保持しています。

三楽荘(旧保澤家住宅)は、東城市街地の南北に延びる街路のほぼ中央に位置し、備中街道から続く道がその
正面に当たり、城下町の面影を残した筋をずらして交差する街路の角地に立地する東城を代表する大規模な
町屋です。明治24年(1891)、藩政末期に帯刀を許された東城の名匠と言われる大工の横山林太郎棟梁の
もと上棟されています。三楽荘は、高価な用材が多用され、意匠的にも、技術的も優れた建造物であり、現代
社会においては二度と建築できない貴重な大邸宅として、城下町東城のシンボルとなっています。
数寄屋建築として文化財的価値が高く、特に建築年代の近い主屋、離れ、茶室、土蔵、塀、門が揃って平成23年1月26日国登録
有形文化財に登録されました。


春 旧暦 桃の節句頃に 東城まちなみ春まつりが開催されます 
290年前、250年前の享保雛、江戸期、明治のおひな様がまちなみに多数ならび 桜町
の有栖川沿いには桜が咲き夜には75本のぼんぼりが灯ります。
     
    
その頃 東城の3大桜 500年の小奴可要害桜 350年の森湯谷のエドヒガン 400年
の別尺ヤマザクラが 春遅く咲きます。
                       

福寿草自生地 久代為重地区 帝釈宇山地区では福寿草が一斉に咲きます。



秋 周囲の山々が色ずく頃 東城まちなみぶらり散歩ギャラリー
が開催されます 
まちなみが期間限定の美術館になります。

お通り(大名行列、武者行列、母衣行列、華童子の行列からなる、
勇壮・華やかな時代絵巻)
五日催し(毎年11月5日に執り行われている東城の秋まつり)
国定公園帝釈峡では帝釈もみじ祭り(帝釈地区)も開催されます。



東城まちなみまつりでおもてなし事業を行っております。
上町自治振興区では 上町茶屋を開店して皆様のおいでを
お待ちしております。
  

自治振興区補助金で修復された金屏風の前に日本一の備後砂で盆石展示
     
  

 東城まちなみぶらり散歩ギャラりー  上町自治振興区 作品
江戸時代の城下町東城のまちなみの箱庭 (上の町5班製作)       こども神楽衣装おろち製作
東城の国重要無形民俗文化財(比婆荒神神楽、大山供養田植え)の展示
良き時代昭和30年代の茶の間の展示
母衣と修復された江戸時代の籠
囲炉裏と昭和30年代の映写機障子に映画を映しました
    
東城まちなみ春まつり          上町自治振興区 作品
がんばろう日本(日本一の白砂 備後砂と籠修復の中にお雛様)
春の宴(明治の御殿雛と真ん中で酒宴を行っている) 
 町屋にお雛様が飾られます 
東城まちなみ春まつり には70以上の会場に お雛様 が並びます                                             

    
東城を流れる有栖川(成羽川)大橋の下に県天然記念物ポットホール(甌穴)あります。
出雲大社東城教会の境内には縁結びの松があります

  
五品嶽城跡
東城の町並みを見下せる通称城山 標高490m比高170m に築かれた山城跡
本丸の石垣の跡 築庭の跡、何段もある郭の敷地跡、大手門跡の石垣後が残っている
本丸があった 常の丸には 古井戸跡があります またかやの平にも古井戸が残って
います 多くの民話も残っています。県史跡五品嶽城跡(宮氏、広島藩家老 長尾隼人
正一勝居城、1万石、一国一城令後廃城 ふもとに浅野屋敷を建てて 広島藩家老
浅野藩三家老の一人 東城浅野家が統治 明治まで十三代継く)

      
五品嶽城跡 樹の種類が多く植生が豊かで、良好な自然環境を形成している樹林は
緑地環境保全地域に指定されている
 
      
城山のふもとに世直神社があります その境内に常夜灯があります。この常夜灯は
寛政10年「1799年」に備中町(上町自治振興区)の常夜灯を尾道の石工山根屋源四郎
が造りました。その当時は川舟の交通、備中街道の目印になっておりましたが、大橋
道の拡張の為 世直神社に現在の所に据付けられています。盆踊りに踊られる尾道
ばやしは山根屋 源四郎の女房が当時尾道で流行していた踊りを東城に伝えました。
盆踊りに現在も踊り継がれています。平成24年10月 元の大橋近くに上町自治振興区
移転事業により常夜燈が世直神社境内から備中町に移設されました。
        
                                                                                      
東城の七胡
 城下町でもある東城は、備中・備後の国境に位置しており、古くから交通・物流の
要衝の地であったと考えられる、この山間の町に七胡と称し、古くから胡社が祀られ
ていることは、その数においても誠に不思議な現象であり、市場が多く広範囲に亘っ
ていたことがうかがえます。現在では市街地に社を持つものが8社あり (上市上之町
、備中町、浜栄町、橋向、館町、新町、上本町、下本町(元胡))廿日胡・七日胡と呼
んで、11月秋の20日と1月7日の例祭は今もされていますが、昔は随分と盛大であった
と語り伝えられています。市の神として崇敬された胡子信仰の起源は中世期に遡り、
商業とこれに伴う交易が急激に盛んになった近世期になって胡社が多く勧請されました。

*なぜ恵比寿でなく胡であるか、東城は鉄山業が盛んで、東城川を利用して倉敷、尾道
はては大阪へ運搬していた為、西宮胡を勧請したと思われる。 大阪住吉神社 玉垣に 
東城社中の名前が刻んであり大変商業が盛んであったと思われる。

 

徳了寺境内に境 石碑があります 一本はこれより西 芸州領 一本はこれより西 
備後国 と刻まれております。

また備後の国(広島県)と備中の国(岡山県)境 旧備中街道 二本松峠には境杭があり
明治時代若山牧水が郷里宮崎に帰る時読んだ歌が「幾山河越え去り行かば  寂しさ
のはてなむ国ぞ けふも旅行く」有名な歌があります。夫婦親子歌碑があり毎年供養祭が
行われております。

近くには国定公園帝釈峡、道後山があります。
    


国登録有形文化財 神龍橋(元紅葉橋)


国登録有形文化財 桜橋


     
帝釈峡(日本五大名峡の1つ)
帝釈峡は上帝釈と下帝釈があり、上帝釈には世界三大自然橋雄橋があり 唐門、
鬼の供養塔、白雲洞等の雄大な姿が見られます。
また入口には帝釈峡の名称の由来になった永明寺があり帝釈天が祀ってあります。
庄原市博物館施設 時悠館 交流施設 まほろばの里オートキャンプ場もあります。
下帝釈は神竜湖(人造湖 ダム100選の帝釈ダム)があり観光船が運行されています,
奇岩や 新緑の時、秋の紅葉時には鮮やかな色彩の木々が見られ、有形文化財に
指定された、桜橋、神竜橋も現存 渡ることができウオーキング散策に最適です。



道後山
クロカンパーク高原競技場、温泉すずらんの湯、冬にはスキー場が(県民の森、高原ス
キー、猫山)3か所あります。さわやかな風が高原に吹きます。


 
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